開通後は当初の目論見通り佐久間、伊那地域の大動脈として活躍を始めたのであるが、間もなく太平洋戦争が始まり、昭和18年には国策によって国鉄に買収された。そして「国鉄飯田線」と名づけられた。

なお買収費は戦争国債によって支払われたが、戦時中は換金することが難しく、戦後は激しいインフレとなったため、この鉄道に夢をかけた人々の手元にほとんどお金は残らなかったといわれている。

戦後、電力需要の急増により1952年佐久間ダム計画が決定し、佐久間 - 大嵐間がダム湖の中に沈むことになった。
水没区間を回避する為、飯田線工事が再び始まる事になった。
水窪町を通る新線も難工事が続いた、特に向市場-城西にある現在の第六水窪川橋梁、通称渡らずの鉄橋は、当初トンネルを掘る予定の区間であったが、トンネル貫通後に地滑りが発生してせっかく掘ったトンネルは放棄、安全なルート確保と、短期間で工事完遂の必要から現在のS字カーブの鉄橋となった。

このように飯田線の工事が難航する背景には、全線に渡って併走する中央構造線の存在がある。
岩盤がもろく崩れやすい地形を伴った場所に飯田線は引かざる得ない宿命を持って誕生したのである。
この崩れやすい路線を守るため過去においては、見張り小屋を作って職員を配置し監視を行っていた。現在は自動化され見張り小屋は廃止されたが、危険な場所を走っているということには変わりない。
大雨が降ると列車は徐行運転を余儀なくされ、ダイヤが乱れることもある。この記事を書いている半月ほど前は、天竜峡-平岡間が不通となりバス代行運転が行われていた。

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