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天竜川流域は、幕府御料林として名高い天竜杉の産地であり、また久根鉱山を初めとする数多くの金属鉱山があり、さらに天竜川やその支流の豊富な水量は膨大な電力を生み出すものと期待されていた。沿線人口こそ少ないもののここに鉄道を敷くには十分な採算がある鉄道になると考えられていた。大正11年に政府がまとめた「予定線」の中に、後の飯田線を含む路線計画が盛り込まれている。

この鉄道、沿線地域にとってその開通は待ち望まれたが、予算不足などから容易に着手されず、特にその中間地点にあたる佐久間一帯では、「国鉄を待っていたらいつになるか分からない」という情勢であった。それゆえ民間主導による「三信鉄道」の建設は、政府の条件付き了解を得て進められたのである。

三信鉄道は昭和2年に会社設立となり、同4年に北端の天竜峡~門島間の建設が始められた、そして間もなく南側からも着工した。

工事は全体67kmを9工区に分け、南北それぞれ2工区ずつを同時に施行するという方法で工事期間の短縮を図ったが、佐久間~門島間には並行する運搬路が無かったことから、佐久間から大嵐(おおぞれ)付近まで長さ15kmに及ぶ長大な索道を建設して物資輸送を行った。また、やむを得ず舟運を利用することもあったが、重量物の運搬には危険が大きく敬遠された。

付近に人家が全くない場所での工事も多く、大雨などで天竜川がひとたび増水すると現場は完全に孤立して飢餓に瀕することさえあったという。

全線67kmに架けられた橋は97本、掘られた隧道は実に171本という膨大な数に上った。

昭和11年までに南側は大嵐まで、北側は小和田(こわだ)までが開通していたが、着工から8年目となる翌12年8月に最後の大嵐~小和田間(31km)が開通し、中央線と東海道線が伊那谷を経由して一本に結ばれた。

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