CREATOR
1958年生まれ半世紀を生き抜いた♂です。本格的に鉄に目覚めたのは、小学2年生、このころは16番ゲージと呼ばれる鉄道模型に魅せられはじめた鉄の道、経済的な理由により当時出現し始めたNゲージに転向してコレクションをしながら、中学2年おこずかいを貯め買ったカメラを手に近くの名鉄瀬戸線をターゲットに写真を撮り始める。就職後は屋根裏に16番ゲージ敷設を計画するも社員寮に入ることにより鉄の道は」断念する。飯田線に始めて出会ったのは、家族で毎年訪れていた初詣の豊川稲荷、当時真っ赤なパノラマカー(名鉄7000系)にばかり目が行って飯田線はよく覚えてないが、旧型車両に混じって165系などが豊川駅に止まっていたのを見た覚えがある。
鉄を離れた当時は映画などが最大の娯楽となっていった。その当時一番感動した映画は、リバイバルで上映していたアラビアのロレンス。エルオレンス(神の人)と呼ばれたイギリス人将校の栄光と挫折を描いた映画である。そんな映画青年になろうとしていた私であったが、おたくの間の手が迫っていた。ある日寮の先輩が映画を見に行こうと誘ってきた。もちろんOKして映画館へ向かう。何を見ようかと思っていたらその先輩がこれがいいといって見たのが結局「宇宙戦艦ヤマト」であった。何でこんな子供の映画を見るのか(当時アニメというのは総じて子供の見るものものと思われていたしほとんどが子供向けであった)断るわけにもいけないので諦めて見ることにした。ここから私のあにめおたくの道が始まる。生誕後半世紀を越えてもこの性癖は変わっていない。
再び鉄の道を極めようと思ったのは些細なことからである。私は今現在で一度だけ入院を経験している。自転車対トラックの壮絶な戦いの末破れ、鎖骨複雑骨折で即入院手術ということになった。入院生活1週は、すぐに過ぎたがそれを超えると何も出来ない苦痛がやってくる。それを紛らすのはTVしか無かったが病院のTVは有料でしかも飽きてくる。仕方なく館内をうろつくことになるがそこで見つけたのが屋上からの眺め、東海道本線が見える。さらに退院後は実家と病院間を通うことになった。使ったのが蒲郡線と今は無き三河線海線 碧南-吉良吉田間であった。そしてちょうど夏休みにやっていた名鉄100周年記念事業「名鉄100駅スタンプラリー」これの一日乗車券と運賃が数十円しか違わなかった。こうして再び鉄活動が始まるが、当初は名鉄主体の活動で地元鉄道を題材にHPも作成したが、仕事や家庭の事情で閉鎖、活動も停止していた。今回再びHP作成を始めたのは活動停止前何度と無く乗った飯田線の魅力、乗りとおしたことはあってもほとんどの駅には降り立っていなかったことと、その歴史に興味を持ったためであった。このページでは歴史までは踏み込めないと思うが、ともかく少しづつ取材を重ねていこうと思う。
更新は遅いと思いますが興味をもたれましたらお付き合いください。

2009年9月3日 CREATOR toshiyuki_ono
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